絶望や断念によって希望や幸福が生じると考えた「三木清」 絶対だと思っていることを疑い、捨ててみることが幸福につながるんだ、っておはなしです。
絶望と希望の哲学者、運の悪い男「三木清」
きょうは、日本の哲学者「三木清」の紹介です。三木清は戦時中を生きた、絶望と希望の哲学者です。
「もうすぐアメリカの占領がはじめるから、英語を勉強したほうが良い」など、預言者のような発言をした結果、2度逮捕されました。最後は、牢獄で死んでしまいます。そのような状況でも、「希望」を捨てずに、文章を書き続け「人生論ノート」を完成させました。
三木清は、周囲の人間から「運の悪い男」と呼ばれるほど、絶望の多い人生でしたが、本人は、いつも「希望」をもって、暮らしていました。
幸福を単に感性的なものと考えることは間違っている
その言葉に続くのは、
(中略)もちろん、他人の幸福について考えねばならぬというのは正しい。しかし我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為なし得るであろうか。
自分が幸せに生きることが、自分のまわりで生きる、愛する人間にできる、もっとも良いことなんじゃないか。って。
(・ω・) わたしが考えている「ママが楽しんでこそ、子どもも楽しい」って考えに似ている。好きな考えかた。
「成功」を「幸福」と勘違いしている人が多い
三木清に関する哲学を紹介する番組では、カレー店の例をだして、説明していました。
とある街で、兄弟が、人気のカレー店を営んでいました。ところが、不況で、お店にくるお客さんが大幅に減ってしまいます。
兄は、あきらめずに頑張る道を選び、弟は、アクセサリー屋さんを始める道を選びました。不況は長引き、兄が営むカレー店は上手くいかず、困っています。一方、弟は、大人気だったカレー店と同じようにはいかないけれども、ぼちぼち幸福に生きています。
って感じの、物語でした。
断念することを欲しない者は、真の希望を持つこともできぬ
「成功」を「幸福」と勘違いしている人が多いけれども、それは「偽りの幸福」であり、本当の幸福は、お客さんに喜んでもらいたいって気持ち。弟は、その欲望に気づき、発想の転換によって「お客さんに喜んでもらいたい」という気持ちを満たしたのです。だから、幸福なんだよって。
自分が捨てられないものを見極める
三木清は、「希望」や「幸福」というものが、「絶望」や「断念」から生まれるのだと考えていました。
絶望によって、なにかを断念する。絶望や断念したもののなかから、自分が捨てられない「芯」を見つけだし、希望をもって行動すると、幸福になるのだと。
絶望は、自分が捨てられないものを見極めるチャンスなんだよって。
真の希望は、絶望から生じる
わたしは、この1年間で、いろんな出来事を経験しました。もっとも近い出来事でいうと、息子3歳に発達凸凹が見つかったこと。夫が転職したことも、大きな出来事。変化が起こったときは、絶望というのか、不安というのか、(なんで)って気持ちが、たくさん生まれました。
しかしながら、変化によって、自分が断念したもののなかに、やっぱり大事だと拾いあつめるものもあり、(ああそうか、わたしにとって、これは捨てられないものなんだ)と気づいたりもしました。
だから、ショックな出来事が起こったときには、諦めないことだけが素晴らしいのではなく、いったん諦めて、自分が本当に大事にしたい考えは何なのか見極め、希望を見つけることも価値がある行動なのだと感じます。
三木清は「懐疑(かいぎ)」という言葉を使って説明しています。絶対こうなんだと思っていることが、本当に絶対なのか、考えてみる。捨ててみる。って行動が、「幸福」につながるんだよって。
(・ω・) 少し前に流行った「断捨離」やミニマリスト、シンプルライフに通じる考えかたで、わたしは好き。
ほな、また。よしなにー。