【苦しみは有害か?】アスペルガーの脳内

「苦しみは有害か?」について、不登校ひきこもり時代に考えていたことと重ねて考える、っておはなしです。

こんばんは、はたのんです。このブログは、アスペルガー症候群はたのんママが、発達凸凹のある息子(自閉症スペクトラム)といっしょに成長する記録です。

画像提供:写真AC sincereさん


 苦しみは有害か?  


わたしが、自分自身について、大きな発見をしたのは20歳のときであった。発達障害、とりわけ「アスペルガー症候群」というものの存在を知った日だ。

あのとき、世界が変わった。わたしを苦しめていたものの正体が分かったのだから。

それと同時に、新しい悩みができた。わたしが感じていた息苦しさや孤独感は、有害なものだったのか? という悩みだ。

当然ながら「苦しみ」というパワーワードは、マイナスな気持ちを多く含んでいる。でも、それだけか? 辞書のなかではない、現実のなかに存在する「苦しみ」のすべてが悪いもので構成されているだろうか。

苦しみは有害か?

わたしは高校時代、不登校ひきこもりになった時期がある。そのとき、よく考えていた。わたしが、いま感じているマイナスな気持ち、苦しみはいったいどこからやってくるのだろうか、と。

もしも、わたしが「石」だったら、苦しむ時間はなかったかもしれない。他者と自分のあいだに流れる、得体のしれない感情を知ることなく過ごせたのかもしれない。次は、石に生まれたい。

いや、本当にそうか。動いていないようにみえる「石」だって、いまだヒトが気づいていない方法でコミュニティを築き、感情を巡らせているのかもしれない。

だとしたら、わたしの感じている苦しみはいったい、どこからやってきたのか。

もしかすると、わたしはわたしではないのかもしれない。ひとりで生きているつもりだったが、わたしは地球という器のなかで、細胞のひとつとして生きているのかもしれない。わたしは、わたしのなかにある細胞と一緒?

わたしは、わたしのなかにある細胞が何を考えているのか、考えたこともない。地球にとって、わたしはそういう存在ではないか。わたしは地球から、ほとんど認識されていないはずだ。そんな小さな”わたし”が、いったい何を悩んでいるのか。

そうだ、わたしの苦しみに大きな価値は無い。わたしの苦しみは有害ではない。ただ、ここにあるだけだ。と考えたとき、わたしのなかで能力の再分配が行われたように思う。

そして、不登校ひきこもりが終わった。わたしのなかにあった自閉傾向が大きく薄れた。他者と普通に話せるようになったのだ。

不登校ひきこもりになる前のわたしは、他者とコミュニケーションををとることが、ほとんどできていなかった。普通に過ごしていたつもりだけれども、どこかしら話が噛み合わなかった。自分のなかの世界、ファンタジーのなかを生きていたのだから当然だ。わたしのまわりには、常にあった。分厚くて硬い透明な壁が。

不登校ひきこもりになったあと、社会復帰したわたしのまわりには何もなかった。まわりにいる人は、わたしではない。でも、わたしの一部だと思った。地球のなかで生きている、細胞のひとつひとつが、わたしとつながっている。わたしそのものだと思った。

そこからしばらくのあいだ、感情には意味がないのだなと考えていたが、いまではすっかり本来の人間らしく、いろんな感情に振り回されながら、日々を過ごしている。

ところで「苦しみ」とはいったいなんだろうか。

悲しいとか悔しいとか感情をあらわす他の言葉に置き換えられるのか、あるいは、自分にはどうすることもできない状態として受け入れるのか。乗り越えられる壁ととらえるか。

辞書のなかにある「苦しい」は、有害そのものだ。一方、現実のなかにある「苦しい」は、辞書のなかにあるそれとは違う。苦しみではない感情、物語を含んでいる。

苦しみは有害か?

わたしはこの質問に「そうだ」と答えることができそうにない。

ほな、また(・ω・) よしなにー。

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