わたしをあらわす言葉は「障害のある子どもを育てる親」だけではない、当たり前の気づきの前に立っている っておはなしです。
こんばんは、はたのんです。このブログは、アスペルガー症候群はたのんママが、発達凸凹のある息子(自閉症スペクトラム)といっしょに成長する記録です。
画像提供:写真AC yslabさん
【わたしのアイデンティティ】子どもの付属物ではない自分、障害児育児
アイデンティティというのは日本語にすると「帰属意識」や「自分らしさ」を意味しています。
わたしは息子が療育に通い始めた頃から、障害のある子を育てる親というアイデンティ(帰属意識)をもつようになりました。
息子が生まれてから、それまで どこに帰属するでもなく、ぶらぶら生きてきたように思います。ですから、ひとつ帰属する場所でできたことで、それがわたしのアイデンティティの中心へとなるのは当然の結末でした。
あれからしばらくの時間が過ぎて、あいかわらず障害のある子を育てる親というアイデンティティのなかにいますが、わたしはそこにだけ帰属する人間ではなかったという、当たり前の気づきの前に立っているように思います。
今日の自分のアイデンティティ(自分らしさ)は、どこにあるのでしょうか。
子どもが生まれる前の自分にどのような趣味があったのか、多くのお母さんは覚えていないのではないでしょうか。わたしもそのひとりです。
あるいはもう選択できない趣味になっているのかもしれません。時間や費用や気持ちの容量や、いまはもう足りないように感じるものが、わたしは多いです。
自分にも分からないことばかりですが、少なくともひとつだけ言えることがあって、今日のわたしのアイデンティティの中心は「障害のある子を育てる親」ではありません。
わたしをあらわす言葉は「障害のある子を育てる親」ではないのです。
そうだ、わたしもひとりの人間だった。子どもの付属物ではないのだ。
当たり前のことですが、わたしはその当たり前を長いあいだ忘れていたように思います。
そのことに気づいてから心が楽になりました。わたしのモノクロだった日常に彩りが戻ってきたように感じます。
わたし、生きてるんですよ。今日も。
「必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ」
織田信長
ほな、また(・ω・) よしなにー。