見るのを避けることができない気分になるとき、それはもはや「見つめられている」と言えるのではないか。ジョルジュ・ディディ=ユベルマンさんの「われわれが見るもの、われわれを見つめるもの」の読書感想文です。
こんばんは、はたのんです。このブログは、アスペルガー症候群はたのんママが、発達凸凹のある息子(自閉症スペクトラム)といっしょに成長する記録です。

【われわれが見るもの、われわれを見つめるもの】読書感想文
今日は、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンさんの「われわれが見るもの、われわれを見つめるもの」の読書感想文です。
2024年12月15日の読売新聞の京都版(関西版かも)で紹介されていて、興味深いと思いました。
わたしたちはものを見ているのか、見つめられているのか。
簡単にいうと、たとえば、人形など目の形をしたものがついているものを前にすると、自分が見つめられているような気がするよね。って、そういう話なんですけども、その感覚をもっと突き詰めていく感じ。なぜなんだろうと問いを繰り返すような本です。
「見る」というのは、本来、自分の意思でおこなう動作です。ところが、まるで見ることを誘われているように感じるとき、見るのを避けることができない気分になるとき、それはもはや「見つめられている」と言えるのではないか、と。
こちらから見ているはずなのに、あちらから見ている自分を見ているような。ひとつであるはずの視覚が分裂する状態。この視覚の主人公は誰なの?と、自らの感覚を脅かされるような。
フランス語では、「見る」という言葉に「関わる」という意味もあって、見るというのは関わること、私が見るだけではなく、見つめられること、つまり相互に関わることなのだというのです。
なるほど。芸術作品と関わることを好む人は、このような感覚で絵画や美術品を見ていたのか。と気づきました。
深いなあ。と、おもて。
私は芸術作品を見るのはわりと好きですが、「見つめられている」という視点は、あまり持ったことがないです。本当に「見る」だけです。
「見る」段階から「芸術が自分に関わろうとしてくる」「こちらを見るように誘導されている」という感覚を持つようになったら、より芸術が楽しめるのかも。
ちょっと違うかもしれないけども、ネットニュースとか、ゲームアプリとか、私が見ているわけだけれども、見るように誘導されているような気がするんですよ。
わたしは情報システムから「見つめられていた」のだなと気づいて、はーそういうことかーと思いました。
そういう諺もあったような。と思って検索したところ、19世紀のドイツの哲学者・ニーチェの格言「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」が出てきました。
この言葉も、今回読んだ本の内容に通じていますね。見るというのは、見られるということと同じなんだなあ。
以上。ジョルジュ・ディディ=ユベルマンさんの「われわれが見るもの、われわれを見つめるもの」の読書感想文でした。
ほな、また(・ω・)よしなにー。
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