【支援学校で「浮きこぼれ」する子どもたち】子どもの成長を信じる力

障害のある子どもを育てていると親としての自己肯定感を育むことが難しいけれども、先生や医師から見た成長した子どもの姿を素直に喜んで、成長を信じて人と違う部分もおもしろがって暮らしていけば良いのだと思った、っておはなしです。

こんばんは、はたのんです。このブログは、アスペルガー症候群はたのんママが、発達凸凹のある息子(自閉症スペクトラム)といっしょに成長する記録です。

画像提供:写真AC kumasanさん


 【支援学校で「浮きこぼれ」する子どもたち】子どもの成長を信じる力 


わたしが「浮きこぼれ」という言葉を初めて聞いたのは、10年以上も前のことです。

NPO法人で不登校の子どもたちを支援するボランティア活動に参加していたときに、支援学校高等部の先生が相談に来ました。

その先生は就職や進学など、支援学校を卒業したあとの進路相談を担当する先生でした。

わたしが活動するNPO法人は不登校の相談をする場所なので、不登校やひきこもりの相談に来たのかと思いきや、そうではありませんでした。

支援学校で浮きこぼれしている生徒がいるのだけども、勉強を教えるのを手伝ってくれないか? という相談でした。

不登校支援のひとつに学習支援があります。それを利用させてもらえないかと。

「浮きこぼれ」という言葉を、そのときのわたしは知りませんでした。

相談にきた先生が勤務する知的障害のある子が通う支援学校の高等部は、卒業後に作業所や生活支援にうつることが多いけれども、非常に学力の高い子どもがいるから、他の選択肢もあることを教えてあげたいと言うのです。

支援学校の高等部は小学校3年生程度の学習までしか教えないけれども、教員から見てももっとできるように思うし、本人ももっと先の勉強をしたがっているようにみえるから、力になってあげたい、と。

支援学校には熱心な先生がいるのだなと驚きました。

スタッフのあいだでも、なんとか協力したいと考えたものの、障害のある子への勉強の教えかたを知っている者はおりません。とりあえず支援学校へ見学に行って、本人に会ってみようとなりました。

それで、わたしとリーダーが支援学校にお邪魔しました。先生が数人と20名ほどの子どもたちが静かに落ち着いて、数学の授業を受けていました。

そのあと迎えた夏休み、週に何度か一緒に勉強をすることになりました。学校では小学校3年生(当時は支援学校高等部2年生)までの勉強しかしていないと聞いていましたが、少し教えるだけでどんどん理解して、スムーズに学習が進みました。

ある日、学習スペースのなかでパソコンをさわって作業している人を見て、自分もパソコンを使ってみたいと思ってる、支援学校では陶芸や木工などの手作業を学ぶ時間があるけども、パソコンを教えてくれる人はいないから、パソコンを教えてほしいとのリクエストがありました。

まずアルファベットを確認するところから始まり、ローマ字を覚えて、パソコンを起動する方法やマウスの使い方を覚えて、ワードで文字を打つ、エクセルで表を作るなど、ひとつずつ進んでいきました。

保護者のかたは当初「うちの子は小学校からずっと支援学校に通ってきたから就労は無理だと思う」と話していましたが、先生の熱心な説明と、本人の頑張りや意欲を見て、最終的には本人の希望に添った進路を応援するという形に変わっていきました。

支援学校高等部を卒業後、本人の関心が強いパソコンを学べる就労移行支援へうつることになりました。その後は、障害者枠で一般企業への就労を目指すと話していました。

支援学校を卒業してすぐの人を受け入れたことがない施設でしたが、学習意欲の高さ、学校以外の場での頑張り、若さによる可能性も含めて評価されたようです。

本人の頑張りはもちろんですが、生徒の想いをサポートしようとする先生の姿勢にも心打たれました。

10年経っても覚えている印象深い出来事です。

わたしは息子の就学相談を受けたとき、あのときの出来事を思い出しました。

本人に無理をさせないように、という考えが広がり、支援学校や支援学級に以前より軽度の障害を持った子どもが多くなっているといいます。

そのなかには「浮きこぼれ」する子どももいるのではないかと思います。

親は子どもの《できない部分》に注目してしまいますが、学校の先生や、お医者さんなど、親以外の人には、違う姿が見えていることもあるでしょう。

ただの社交辞令だと考えず、褒められた部分は素直に喜んで、子どもの成長をおもしろがって生きて良いのだと思います。

どんな子どもにも、伸びしろはあります。記憶のなかにある《できない姿》ではなく、成長してできるようになった部分にも目を向けていきたいです。

障害のある子どもを育てていると親としての自己肯定感を育むことが難しいように感じます。成長とともに(やっぱりできないな)から(思っていたよりできるんだな)に変化するものがあって、その繰り返しが、親として子どもの成長を信じることができる活動力に繋がるのだと思います。

人と違う部分についても、生まれたばかりのころがそうであったのと同じように、人と違うことをおもしろがって生きていけば良いのだと思います。

いろいろ考えるとよく分からなくなるので、とりあえず、子どものことで褒められたら、喜び舞い上がって暮らすと宣言しておきます。

ほな、また(・ω・) よしなにー。

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