苦しんでいる当事者は気づかない手助けの存在や、自分のなかにあったモヤモヤした苦しみを言葉に変換できる本「プラナリア」の読書感想文です。
こんばんは、はたのんです。このブログは、アスペルガー症候群はたのんママが、発達凸凹のある息子(自閉症スペクトラム)といっしょに成長する記録です。

画像提供:写真AC いおるな2さん
【プラナリア】読書感想文、まわりに理解されない終わらない苦しみがある人へ
きょうは、山本文緒の「プラナリア」を紹介します。第24回直木賞を受賞した短編集です。2000年に出版された本ですが、古さを感じさせない物語でした。
一番はじめの物語である表題作「プラナリア」は、乳がん手術をした女性が主人公です。
プラナリアは切っても切っても増殖する。自分もプラナリアのように、なくなった部分が再生したらいいのに。
そうやって話すと、まわりから「もう終わったことなのに」「場の空気が悪くなるから、やめて」と嫌な顔で責められるのです。
乳がんは再発していないものの、定期的に病院へ通い、身体中が痛くて、吐き気がして、まともに過ごせない状態である主人公は、まわりが「もう終わったこと」という感想をもつことに憤りを感じています。
自分にとって、乳がんというのはアイデンティティ。何もかも失ってしまった自分が何者であるのかを表す言葉。
わたしにとっては、まだ終わっていない。という気持ちに苦しんでいるのです。
それでも、報われない気持ちに折り合いをつけて、人との出会いのなかで前を向き始めます。
これでハッピーエンドか。と思っていると、最後にはガタガタッと崩れて、また不幸な状態に戻ってしまったようにみえる終わりかたをしました。
いや、不幸な状態とは違うのかも。最初に戻ったというのかな。物語の、一番はじめに戻っていったような感覚がありました。
戻ったけれども、完全に同じではなくて、居心地の悪さを感じる場所から抜け出して、新しい一歩を踏み出す予感を感じさせる終わりかたです。
社会の一員として生きていた自分に戻りたいと願いながらも、乳がんになってしまった結果、どうしようもないことを考えてしまうようになった自分を終わらせることができずに苦しい時間を繰り返し生きている女性の物語でした。
自分にとってのアイデンティティである乳がんについて知りたいわけでもないし、苦しい気持ちを抱えている自分を隠して、まわりの空気を読んで生きていきたいわけでもない。
まわりの人には理解されなくても仕方が無いよね、という気持ちと、なんで自分だけが、という気持ちが、あっちに傾いて、こっちに傾いて。
まわりには理解されないけど、理解されたいとも思っていないし、理解できるとも思っていない。同じ経験をしたことがない人に何が分かるのよ。という、静かな怒りを感じました。
苦しい時間を終わらせたらいいのは分かっているのに、それができないんだ。っていう、矛盾した気持ちを抱えているような印象を受けました。
いま、わたしも同じように感じています。
理解したふりをする人々に、うんざりです。
一緒に頑張るって、何を頑張るの? あなたは被害にあっていないじゃない。と思ってしまうのです。
自分だったら、こうする。なんてのは、傍観者だから言えること。そんな簡単に決断することはできません。
プラナリアに出てくる主人公の行動はリアルで、誰かの実体験のような感覚で読み終えました。
まわりに理解されない終わらない苦しみがある人が共感できる物語だと思いました。
確かなハッピーエンドにならないところも、良かったです。
あと、まわりからサポートを受けられているようにみえるのに、受け入れていないところも、グッときました。支えられている人は、支えてもらっていることに気づいておらず、苦しんでいるときには、手助けにみえるものであっても、ありがたく受け入れるのが難しい状態だという様子が伝わってきました。
自分もこういう行動しているのだろうなあ、と。好意的に手助けしようと思ってくれている人々の気持ちをはねのけてしまっている部分が、いまのわたしにもあると思います。
これを読んだからといって気持ちが楽になるとか、そういう感じの物語では無いのですけれども、そうそう、こういう気持ちだ、という自分のなかにあったモヤモヤした苦しみを言葉に変換できる本だと思いました。
図書館の返却期限がきたため、プラナリアしか読めませんでした。もう一度借りようと思います。もう一度借りてでも、次の話を読みたいと思わせる本でした。
ほな、また(・ω・)よしなにー。



