【誰がどうやって力になってくれるの?】障害受容の言語化「サイレント」

まるで本当はあるのに見つけられていないあなたが悪いのだ、と責められているような感情を抱いていたことを思い出した、っておはなしです。

こんばんは、はたのんです。このブログは、アスペルガー症候群はたのんママが、発達凸凹のある息子(自閉症スペクトラム)といっしょに成長する記録です。

画像提供:写真AC Flowersさん


 【誰がどうやって力になってくれるの?】障害受容の言語化「サイレント」 


年末にtver(無料動画配信サイト)で数年前に話題になったドラマ「サイレント」が配信されていました。

ドラマ「サイレント」は、病気によってだんだん耳が聞こえなくなった主人公が、出会わないように気をつけていたはずの耳が聞こえた頃の恋人や友人との交流を再開するところから物語は始まります。

「サイレント」というドラマを食わず嫌いしていたのですけれども、想像していた物語と異なり、興味深い話だなと感じました。

恋愛ドラマの部分もありますけれども、それだけじゃなくて、だんだんと耳が聞こえなくなる主人公の言葉、障害のある兄弟から親への言葉、病気になった夫に対する言葉など、障害や病気にまつわる部分についての気持ちの言語化が興味深く感じました。

特に印象に残るシーンが多かったのは9話です。

誰がどうやって力になってくれるの?
ドラマ「silent(サイレント)」 9話 サブタイトル

息子の発達障害に関して、困っていると「相談を」「助けてもらいながら」と言われることが多かったのですけれども(誰が? どうやって? 助ける方法なんてあるの?)そういう気持ちをもつことが多かったので、主人公の戸惑いに共感しました。

わたしは、この抽象的な言葉に「誰かが助けてくれるよ(自分には無理だけど)」という意味を感じていました。そんな場所はどこにも無いのに。そんな人はどこにもいないのに。まるで本当はあるのに見つけられていないあなたが悪いのだ、と責められているような感情を抱いていたことを思い出しました。

また、お母さんの行動と、わたし自身の行動を重ねて、ハッとする部分も多くありました。

主人公が悲しまないですむようにと考えて、いろんなことをやっているけれども、それが本当に子どもの幸せにつながっているのか、考えるきっかけになりました。

以前読んだ本のなかに、障害のある子の幸せが何かはまわりの家族が決めることじゃない、本人にとって何が幸せなのかはまわりに決められることじゃない、という意味の言葉がありました。

わたしは、子どものためではなくて、自分が心配だという不安から子どもの行動を制限してしまう場面があるなと反省しました。

創作物語だからキレイにまとまっているのは承知の上なのですけれども、幸せそうに見える人にも、その前にはいろんなことがあるんだよな、自分にも幸福な未来があると良いな という透き通った気持ちを最後に残すドラマでした。

たとえ納得できないことがあっても、現実にあるものを受け入れて生きていくしかないし、原因を追求せずに できることをできる範囲で実現しながら生きるのが幸せにとって大事なのかなと思ったりもしました。

困難はたくさんありますが、どんな出来事にも幸せの種があると良いなあ。

ほな、また(・ω・) よしなにー。

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